人生が我々から何を期待しているのか
フランクルの夜と霧を再読しました。
定期的に読みたくなるんですよね。5年に1度くらい。
- 作者: ヴィクトール・E・フランクル,池田香代子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2002/11/06
- メディア: 単行本
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フランクルの出世作であり代表作でもある本書は、強制収容所のショッキングな口絵写真などから、ナチスの残虐行為を告発した「アンネの日記」のような本だと思われていることがありますが、そうではないんですよね。
もちろんアンネの日記も読みごたえのある名著ですが。
「夜と霧」の現代邦訳は、「強制収容所におけるある心理学者の体験」といい、主眼はあくまで臨床医であるフランクルの観察にあります。
人間の尊厳を全否定されるような極限状態に陥ったとき、人の精神はどのようになるのかということを、彼は科学者として観察し、目に焼き付けたのです。
ちなみに、日本語版のタイトルとして親しまれている「夜と霧」という言葉ですが、これは、1941年に始まったアドルフ・ヒトラーの特別命令に由来しています。
この年、ヒトラーは、非ドイツ国民で党と国家に対して反逆の疑いのある者は、家族丸ごと捕縛して収容所に拘禁するという命令を出しています。
この恐るべき特別命令は夜陰に乗じ、霧に紛れて秘密裏に実行され、ユダヤ人の一家が一夜にして「神隠し」のように消え失せるという事件が各地で相次ぎました。
そのため、通称「夜と霧」命令と呼ばれたのです。
脱線したので戻りましょう。
強制収容所において、人間としての尊厳を根こそぎ奪い取られ、運命にもてあそばれるだけの存在となった人々は、もはや自分を無価値なものとしか思えなくなります。
「生きる意味」というものが、自分の立てた人生設計に沿って追求され、実現されるものだとするなら、強制収容所の囚人たちには、そうした「意味」を追求する可能性さえ残されていなかったわけです。
しかし、「生きていくことに、もう何も期待が持てない」というある囚人の絶望の言葉に対して、フランクルは次のように言います。
「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っている、人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているのだから」と。
その囚人には、彼のことを愛し待ちこがれている異国に住む一人娘がいました。
そして、娘の存在によって彼は生きることのかけがえのなさと責任に気づき、生きる勇気を与えられたのです。
ここでは、人生に対して何かを期待するのではなく、「自分は人生から何を期待されているか」ということへと、生きる意味への問いに180度の方向転換が生じています。
この転換によって、人生はいかなる状況においても決して無意味にはなりえないことが明らかになるとフランクルは言うのです。
強制収容所という極限状況のなかで、一人一人生きることは、不断の問いかけ、呼びかけへの応答であると、フランクルは確信したのです。
彼の言葉を引用しましょう。
ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。
すなわち人生から何を我々はまだ期待できるかが問題なのでは無くて、
むしろ人生が何を我々から期待しているかが問題なのである。
そのことをわれわれは学ばねばならず、
また絶望している人間に教えなければならないのである。
哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的展開が問題なのであると云えよう。
すなわち我々が人生の意味を問うのではなくて、
われわれ自身が問われた者として体験されるのである。
こむつまのようなお気楽専業主婦には、強制収容所での苦難を生き抜くという体験を想像することすら難しいです。
今の平和な日本に生きるこむつまは、「人生に対して何かを期待する」という考えを自明として疑っていませんでした。
だからこそ、時々本書を読み返し、「自らの人生において、自分にしか答えられない問いに気づき、応答しているか?」と自問するのです。
ではでは、See you later, alligator.