【感想】吉野源三郎 著「君たちはどう生きるか」
この本は、小学校5年生か6年生のとき、読書感想文の課題として読んだ経験があるのですが、その当時は、特段面白いともつまらないとも思いませんでした。
単に「課題図書として読まざるを得なかったから、読んだ」という感じですね。
先日、図書館で久しぶりに本書を見つけ、「あっ、懐かしいな」と、思わず手に取りました。
大人になってから読み返してみると、すごく面白い作品だなと気づきます。
タイトルからは分かりにくいかもしれませんが、本書は、中学生向けに書かれた小説です。
発行されたのは、1937年。
戦前ですね。
1937年とは、盧溝橋事件が起こり、その後日中戦争へと進展していくことになるきっかけになった年です。
世は既に軍国主義で、言論の自由は著しく制限され、市民運動が激しい弾圧を受けていた時代。
著者の吉野源三郎氏は治安維持法事件で逮捕された経歴を持っています。
少し長いですが、筆者の考えが良く分かると思うので、本書のまえがきを全文引用したいと思います。
「君たちはどう生きるか」-かりに、教室で先生からこう質問されたとすると、「はい」と、すぐ手をあげる人は、まず、ないでしょう。
こんな本を書く私だって、いきなり、こう聞かれれば、ちょっと返事はできません。
しかし、「どう生きていこうか」と考えたり、「どう生きてゆくのが正しいのだろうか」と疑ったりするのは、人間が人間であるという証拠ともいえることなのです。
草も木も、鳥もけものも、ただ、いちずに生きてゆくだけで、自分の生き方を問題にしたり、気にかけたりはしません。
人間であるからこそ、私たちは、「どう生きるか」と考え、いちどその疑問にめざめると、それを心からぬぐい去ることができなくなるのです。
それは楽しいことでしょうか。いいえ、けっして楽しいことだとはいえません。
みなさんも、おとなになってゆくとともに、きっと、ときどき、ただ無心に生きている草や木や、鳥やけものを、うらやましくながめることがあるだろうと思います。
人間同士は、おたがいに意地の悪い気持ちをおこしたり、人からなにかいわれるのを気にしたり、あさましい争いをしたりして、-それだけに「どう生きるのが正しいのか」などと考えたりして生きているのに、わか葉の樹木は、黙ってスクスクと枝をのばし、静かに葉をしげらせてゆきます。
自分のことも、人のことも、気にしていません。そのほうがどんなに美しいことか。
しかし、それを美しいと思うのも、考えてみれば、人間だけにできることなのです。
人間とは、ほんとうにふしぎなものです。そのふしぎな人間としての一生を、どういうふうに生きていったらいいのか。
人間には、人間だけにしかない美しいものだって、あるはずです。人間だからこそわかる、りっぱさもあるはずです。
それを、ためしに、さがしてみようではありませんか。
この本の主人公のコペル君は、ちょうど、みなさんと同い年ぐらいの少年です。
コペル君も、いろいろなことに出あい、いろいろなことを考えて、この問題にぶつかりました。
そして、最後に、コペル君はー、いや、それは「まえがき」でしゃべることではありませんでした。本文を読んでゆくうちに、みなさんにもわかっていただけるでしょう。
さて、まえがきにある通り、本書の主人公はコペル君といいます。
本名は「本田潤一」君で、コペル君とは彼のあだ名です。
話はコペル君が中学1年の時から始まります。
中学1年生の子どもらしい経験や発見を、コペル君の叔父さんが、話を膨らますことでストーリーが進んでいく。
ある日、コペル君は、親友を裏切ってしまい、学校に行けないぐらい自分自身の心にも傷を負ってしまいます。
「果たして、コペル君は親友に許してもらえるのか」というのが、小説としての本書のクライマックスなのですが、まあ、結果を言うと、叔父さんからのアドバイスもあって、コペル君は親友と無事に和解するんです。
最後に、コペル君は、叔父さんに宛てて、以下のような決意を書き記します。
ぼくは、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中がこなければいけないと思います。
人類はいままでも進歩してきたのですから、きっといまにそういう世の中にいきつくだろうと思います。
そして、ぼくは、それに役だつような人間になりたいと思います。
そして、筆者が読者に以下のように問いかけ、本書は幕を閉じます。
最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。
君たちは、どう生きるか。
三十路のこむつまには非常に重たい問いかけです。
そうそう、最近はマンガ版も出ているようです。
ではでは、See you later, alligator.