不平等社会日本~さよなら総中流~
10年以上前に書かれた佐藤俊樹氏の著作を、それこそ10年ぶりの再読。
当時こむつまはまだ学生で、「ふーん」てな感じで読んでいたわけですが、社会人を経験し、「組織」や「立場」といったものを身を持って体感した現在、物凄く興味深く、そして新鮮な気持ちで読むことができました。
特に面白かったのが、日本における「人の選抜方法」と「エリート」に関する考察です。
西欧のような明らかな階級社会であれば、たとえ形式的には競争という形をとっていても、選抜方法自体の不平等さが目に見えています。
そのため、競争に勝ち残った人々は、勝ち残ったという事実だけでは自分の地位を正当化できません。
自分がその地位にふさわしい人間であることを目に見える形で積極的に示さなければならず、そのために、「高貴な義務」(ノブレス・オブリージュ)という観念が生まれるのです。
つまり、西欧の「勝ち組」は、「自分が勝っているのは自分の実力ではない」と、理解しており、だからこそ、貧乏な人に優しくしたり、進んで社会のために身を投じたりして、自らの頑張りを示すのです。
一方、日本の選抜システムは形式的には高度に平等で、全員を同じ年齢で一律に選抜にのせます。
選抜の方法も主観的な偏りが入りにくいペーパーテストが主で、選抜機会は強く一元化されています。
日本では選抜競争が平等な競争であると信じられてきたため、「高貴な義務」という概念すらもたないエリート集団がつくりだされました。
つまり、日本では、実際には親の学歴や職業といった資産に因る部分が大きいにも関わらず、試験を勝ち抜いた人達があたかも「この結果は自分の実力で手に入れたものだ」と思い込み易い方式になっているため、ノブレス・オブリージュもエリートとしての責務感もない、単なる既得権益層としてのエリートを生んでいるということになります。
そして、かなりややこしいことに、日本のエリートは「自己否定」をします。
どういうことか。
筆者は以下のように説明します。
選抜システムはどういうものであれ、必ず重大な問題をひとつかかえる。
選抜は少数の「勝者」と多数の「敗者」をつくりだす。
「敗者」とされた人はそのままでは当然やる気を失う。
その結果、経済的な活力が大きく殺がれ、社会全体も不安定になる。
「努力してもしかたない」という疑惑にとりつかれていれば、その危険はいっそう高まる。
選抜社会をうまく運営していくためには、「敗者」とされた人々が、意欲と希望と社会への信頼を失わないようにしなければならない。
(中略)
それゆえ、「選抜そのものが実は空虚なのだ」と選抜の勝者が言明する。
エリートがエリートであることを自己否定する形で、「敗者」の意欲をそがないようにする。
簡単に言えば、「ボク、テストでいい点とるのがうまいだけなんです!」とエリート自身が告白したり自己批判したりすることは、この社会の選抜システムにとって、重要な「お約束」のひとつなのである。
日本のエリートはこの「自己否定」を行うことで、エリートであることの「責任」から逃れるわけです。
政治家にせよ、組織のトップにせよ、今の日本のエリートを思い浮かべながら本書を読むと、「なるほど。そういうことか」と頷く部分が多々あります。
ちなみに、本書の最後で筆者は、「この閉塞した現状を打破するためにはどうすれば良いのか」ということもきちんと考察し、提案されています。
残念ながら、本書の発行から10年以上経った現在も、状況は好転していませんが・・・
我が国が進むべき道はどこなのか、是非ご自身の目でお確かめください。
ではでは、See you later, alligator.